
樺太アイヌ語プロジェクトsimma

村崎恭子先生インタビュー
Interview
" アイヌ語は日本人として本当に守るべき文化遺産 "
―先生がアイヌ語を学ぶようになったきっかけは?
村崎 私の(東京外国語大学時代の)専攻は言語学で、最初はモンゴル語をやっていたんです。でもその当時、1960年ですけれども、モンゴルと日本の国交がなかった。私が言語学として学びたいのは生きた言語、話されてる言語。それで、モンゴル語をやるつもりで東大に行ったんですよ。服部四郎先生という先生は、アルタイ語の専門の有名な方だし、服部先生のところでモンゴル語をやろうと思って行ったの。ところが、先生からは「モンゴル語なんて今やったって文献相手の仕事だから、そんなものは50過ぎてからやればいい。今やって欲しいのはアイヌ語だ」って言われて。
―では、最初はモンゴル語を学ぶために、外語大から東大に行かれた…
村崎 しかも、学士入学ですね。大学院は直接入れるような状況じゃなかったですね、その時代は。 なので、東大の言語学科の三年生に編入しました。それで言語学の手ほどきを受けたわけだけど、服部先生は「アイヌ語を今調べないととんでもないことになる」って言う危機感を抱いてらした。それで、アイヌ語の方言調査(「アイヌ語基礎語彙調査」)を始めたところだったの。当時、知里真志保先生たちと一緒に1955年に全道のアイヌ話者を調べて、その話者からアイヌ語を収集して辞典を作ろうっていう、そういう計画があったんです。その時には田村すゞ子先生という、私の3年ぐらい先輩のある方もいらして、服部先生と田村さんとで私を引っ張ったんですね。調査原稿も揃った最終の校正段階に入っていたので、私は田村さんと一緒に索引作りをしました。
―アイヌ語はどこで、どのように学ばれたんですか?
村崎 服部先生が、樺太方言を話せるすごくいいおばあさんがいるから、と紹介してくださったの。だから、もう入学後すぐ早速行ったと思います、(北海道の)常呂(ところ)に。アイヌのおばあさんってバイリンガルですよ、日本語が通じるんですもの。だから、普通のおしゃべりの中から学びましたね…いきなりいろんなことを聞いたって分からないから、おしゃべりをして。フィールドワークの神髄というのは、相手の人と親しくなるということだと思います。上から目線じゃなくて、友達になって。私の場合は、自分の孫娘みたいにかわいがってくれて。
―土呂で印象に残っている思い出はありますか?
村崎 たくさんあるんですけれども、1960年に私が常呂に行った時は戦争直後でね。まだ戦争の復興ができてない時でしたから。しかも私が訪ねた藤山ハルさんという方の家族は、樺太の西海岸のライチシカっていうところから戦後引き上げてきて、ようやくたどり着いたところなんですよね。
樺太アイヌの人たちは生まれ故郷を奪われて、ロシア領になったり日本領になったりと翻弄されて、結局また大戦でロシア領になった。「あなたは日本人として日本に帰りますか。ロシア人としてこのサハリンに残りますか」っていう択一を迫られて。ほとんどの人はもう日本に同化してたから、日本人として日本に帰ってきたという実情があります。アイヌの人々の多くは北海道を中心に最初は函館に引き上げたけれど、結局色々バラバラになることが多かったようで。ハルさんの場合は、常呂に行くことになった。
この常呂っていうところは漁師町で、サロマ湖って大きな湖があるんですけど、サンマとかホタテ貝とかの漁をしている、小さな漁師町。そこの常呂神社の砂丘の上にある、いわゆる「掘っ立て小屋」—電気も水道もないようなところに—ハルさんと娘さんが住んでました。結局、引き上げてきた人たちを受けるための住宅なんてなくって、米村さん(元網走郷土博物館長)らの協力でもって、掘っ立て小屋を作ったんじゃないですかね。
娘さんはちょっと病気がちで、体が弱かったんですけれども、ハルさんの世話をしていました。ハルさんの小屋には水道も電気もないので、テープレコーダーの電源が取れません。その当時はオープンリールテープでね。録音するときは一度にできないから、公民館に来てもらいました。おしゃべりをしながら、その内容をノートに書いたりして。
―娘さんと話す時、ハルさんは…
村崎 みんな日本語です。アイヌ語はシャットアウト。アイヌ語を、子どもたちにあんまり話さないようにしてたと思いますね。けれども全く禁止ではなくって、私が行ってアイヌ語で喋ると、みんなそれに興味を持って入ってくる、会話の中に入ってくるってことはありました。娘さんも聞く力は100%あったと思いますよ。受け答えは日本語だけれども、ちゃんと分かるから。そんなに詳しいことは分からなかったかもしれないけれども、日常会話ぐらいは全部分かっていたと思いますよ。その後、引揚者住宅っていうのが建ちましたが、ハルさんは集合住宅ではなく、小屋を改装して電気を引いたり水道を引いたりして、そこに住んでいました。そして、1974年に亡くなられました。
―ハルさんが亡くなられた後、先生はどうされたのですか?
村崎 その後の10年間は全くブランクでしたね。日本語教育を教えるようになり忙しくなったのと、結婚、出産、子育てと重なり、なかなかフィールドに戻れなくて。樺太アイヌ語のネイティブ話者を見つけられず研究を諦めかけていたら、ピウスツキの蝋管の出来事[i]が沸いて降ってきたんですよね。その蝋管の発見とその研究、再生の研究っていうプロジェクトが始まるところに、ちょうど私は東京から北大に赴任したんです。それは偶然なんですけれども、83年のことですね。
―それは日本語教師として?
村崎 日本語教師としてです。北大の言語文化部に日本語系のセクションが初めてできて、そこの教授として専任は一人しかいないんですけれども、そこに赴任したんです。その時期とピウスツキの研究プロジェクトがちょうど重なって、北大に赴任したと同時にそのプロジェクトに入ることになって。それで奇跡的に樺太アイヌ語話者の浅井タケさんに巡り合うことができたんです。
浅井タケさんは全盲のおばあさんなんですけれども、並外れた記憶力を持っていました。彼女はとっても素晴らしい人でね、精神的にものすごく豊かな人でした。タケさんは西海岸の出身で、引き上げてくる直前にご主人と知り合って、結婚されたそうです。その人と一緒に引き上げてきて、常呂ではなく振内(ふれない)に住んでいました。樺太アイヌの人たちには幾つか集落があって、やっぱりまとまって住むんですよね、北海道に来ても。常呂は一つの集落なんだけど、それよりも大きい集落は稚(わか)咲内(さかない)。「飲める水がない川/wakka・saku・nay」という意味なんだけど。川の名前ですからね、アイヌ語地名は。どうして川が重要かっていうと、鮭がのぼってくるから。鮭はもう本当に唯一と言っていいほどのタンパク源ですから。鮭がのぼってくるところの川口にコタンができるわけですよ、大体。
―その後、東京のアイヌ文化交流センターでアイヌ語を教え始めたきっかけは?
村崎 結局、タケさんが94年に亡くなって…。その2年位前に、北大から横浜国立大学に移っていたんですが、いよいよタケさんが亡くなって「もうこれでダメだ」っていう時になった時。本当にもう、どうしたらいいかわからないっていうことで、大変な絶望感だったんですけれども、これじゃいけないと思って。それで、私にできる事って言ったら、私がタケさんやハルさんから習ったことを伝えなければと思ったんです。その当時、アイヌ新法が97年にできますよね。アイヌ民族初の参議院議員になった萱野茂さんが奔走なさって、東京・八重洲に「アイヌ文化交流センター」っていうところを定めて。私は、そこで樺太アイヌ語を習いたい人にクラスを提供したいと思って、2011年から教え始めました。面白いと思ったら学びましょうねっていうスタンスで、別に強制するわけではないし。それに共感してくれている人が、今でも残っているんじゃないでしょうか。
—教授法で工夫されていることはありますか?
村崎 アイヌ語には元々文字がないですから、オーラル・アプローチですよね。文字を読まないってこと。文字はもう本当に、記号の助けだけ。ちょっと記憶が危ういという時に「なんだったかな」と思って確かめるような感じで。
―ネイティブの話者がいない中で教えるのは、苦労があると思いますが。
村崎 だから、対話ができないですよね。言語っていうのは独話だけでは…昔話をやるだけでは生きた言語にならないから。それが本当に難しいですよね。生活上の言葉として言語が中々残りにくい。アイヌ語が日常的に生きていた時代のものから、もうどんどん離れてしまうっていうのは、私自身そうですし(難しい)。それを再現なんかできないし、それはすごく不安ですけれども、しょうがない。記憶をたどって、習いたい人には習ってもらいたいなと思うだけですね。
―日本の地名とアイヌ語についても、先生は研究されてきましたよね。
村崎 日本の地名には、アイヌ語が理解できなかったら判明しないものがたくさんありますよ。文字以前に、その地に住んだ人がいて、その人たちがつけた地名だということ。アイヌ語が分かると「なるほどな」と思うことたくさんあると思うんですよね。だから、グローバル化とか国際化とかって言うけれど、日本国内にある異文化との関わりや異文化を大切にするっていう、そういうその気持ちがなければ、国際化なんかできないと思いますよ。
言語学的には、アイヌ語と日本語が系統の違う言語だってことは明らかなんですよね。少なくとも同系統の言語ではない。例えば、朝鮮語と日本語はちゃんと証明はされていないけれど、同系の言語だといえます。仕組みがすごく似ているから。でも、、アイヌ語と日本語には文化接触があったはずです。本当に長い間隣合ってずっと暮らしていましたから。それは、すごく興味深いところだと思います。アイヌ語は日本人として本当に守るべき文化遺産だと思いますし、アイヌ語を通して、日本文化の豊かさがアイヌ文化との接点から来てるということを分かっていただければいいなと。
—樺太アイヌの楽器や衣装なども素敵ですよね。文化の継承についてはどうでしょうか。
村崎 言語と文化っていうのは裏腹になってるから。トンコリだって…トンコリっていうのは樺太アイヌの民族文化ですが、それもそうです。それから、北海道ではムックリ(口琴)って言ってるんですけど、樺太ではムフクンって言うんです。樺太のムフクンは音もやっぱり違うんですよね。竹は同じなんだけど、樺太のものには糸に棒みたいなのがついてて、すごくダイナミック。60年代には、樺太の人たちは民族楽器をどんどん作っていました。それが、今いろんな博物館に入ってますけれど。刺繍もそうですよ。着物の刺繍は、模様や色合いがものすごく華やかです。だから、樺太アイヌの特徴というのがあって、それはすごく大切だと思うから、それを分かってほしいと思います。
—最後に、一言お願いします。
村崎 アイヌ語は、元々は書かれた言語ではないわけだから、ネイティブ話者が絶えた今、それを享受する時にそれをどういう風に習うかというのは重要なことです。やはり、音声言語として受け止めてもらいたいと私は思います。それから、教授法とか教材開発についても必要だと思うんですよね。ビデオ映像は、NHK が古く取材したのが色々残ってるはずだから、そういう資料をちゃんとアーカイブとしてまとめてね、今度新しくできる国立アイヌ民族博物館で、樺太アイヌの資料室を整えてもらえたらいいなと思っています。
*本記事は、2019年3月に現Simmaメンバーが行ったインタビューを編集し、当プロジェクト用の特別記事
として掲載しています。本記事の無断転載(一部または全部)はご遠慮ください。
[i] ピウスツキの蝋管プロジェクトについては、以下を参照。
村崎恭子(2003)「ことばの永遠の命を願って−樺太アイヌ語の半世紀」(大角翠編著『少数言語をめぐる10の旅 : フィールドワークの最前線から』三省堂, pp. 267-295.